言葉

息子が5歳になった。

 一人で本を読む時間も少しずつ増えていき、言葉への興味がさらに深まってきた。ある日、彼が発案した「真ん中とり」(「うさぎ」なら次は「さくら」→「くらまでら」→「ますく」と奇数文字の単語の真ん中を次の言葉の頭に持ってくる遊び)は、一緒にやっていてかなり面白い。

 「舞台や映画のお仕事の場所ではいつも『おはようございます』と言うのは、『こんにちは』や『こんばんは』だとお客さんが『来ん』(来ない)という音になるかららしいよ」と話すと「じゃあ、大根持って行くときは『だいくん』持ってきたよ、と言うわ」と返してくる。(徒然草の大根の恩返しの話や、小林一茶の「だいこひき だいこでみちを おしえけり」など大根にまつわる話は面白いのが多くて、息子とはよく大根が話題になる。)

 一所懸命に何かを説明しようとしたり、どう表現してよいのか分からない感情に何とか言葉をあてようとしている姿に向き合っていると、ひとつひとつの言葉がいかに大切かが体に染み入ってくる。世界中の人が自分の言葉で何かを表現していることを考えると、当たり前だけれど言語に優劣などはないことも身をもって理解できる。我々大人は、話す言葉ひとつひとつを慎重に選ばないといけない。いつだったか野田秀樹さんが「自分の言葉に対して責任を持つこと」について話されていたことを思い出した。

言葉を使って、誰かを不当に敵にして攻撃、排除するようなことがないように。
その言葉が持つ歴史をできる限り学ぶように。
そして一方で、言葉と意味を繋げすぎて真面目になりすぎないように。

ということをこの小さな後ろ姿に毎日教えられている。

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